添乗員ライターがお届けする海外旅行情報。今回は、イタリア北東部のアドリア海に浮かぶ水の都ベネチアを取り上げます。「なぜ海の上に街があるのか」「なぜ1,500年以上が経った今も沈まないのか」――この街の成り立ちには、迫害を逃れた難民たちの壮絶な知恵と意地、そして1,000年以上続いた海洋共和国の物語が詰まっています。
ベネチアは約120の島が約400の橋でつながれた都市です。島内には176本の運河が縦横無尽に走り、自動車が入れない迷路のような街並みが今も残っています。街の中心を蛇行する全長約3kmの大運河「カナル・グランデ」には、物資や人を乗せた船が絶えず行き交っています。1987年には「ベネチアとその潟(ラグーナ)」として世界遺産に登録されており、建築の傑作が立ち並ぶ都市として世界的に評価が高いです。
水没への不安|ベネチアが抱える現代の危機
この美しい水上都市は、今まさに存在を脅かす問題に直面しています。島全体の海抜はわずか1〜4mしかなく、大潮や気象条件が重なると「アクア・アルタ(高潮)」と呼ばれる浸水現象が繰り返し起きます。サン・マルコ広場など標高の低い場所は完全に水没することもあります。
地球温暖化による海面上昇に加え、20世紀に急速に進んだ地下水の過剰汲み上げによる地盤沈下も深刻で、かつてよりも浸水頻度が増しています。街全体がいつか海に沈んでしまうのではないかという懸念は、地元住民や研究者の間で長年議論され続けている課題です。
それでも、1,500年以上の歴史を持つこの街が今も水面上にあり続けているのは、かつての人々が編み出した驚異的な建築技術と、泥の海の上に街を作り上げた執念の賜物に他なりません。
民族の侵略から逃れた難民が湿地に街を作った
誰も住みたくなかった「死の湿地帯」
ベネチアの歴史は、今から約1,500年前に始まります。
イタリア北部に広がる「ラグーナ」と呼ばれる潟(入江が砂州で仕切られた浅い湖)は、約6,000年前から存在していました。しかし長い間、そこに人が定住することはありませんでした。底なし沼のような湿地帯は住居を構えるに適さず、魚と水鳥だけが棲む場所でした。
変化が訪れたのは5世紀から6世紀にかけてです。西ローマ帝国が崩壊し、ゴート族・フン族・ランゴバルド族といった異民族が次々とイタリア半島に侵入しました。パドヴァ、アクイレイア、トレヴィーゾなど内陸部の都市に暮らしていた人々は、焼き打ちと略奪から逃れるために海へと向かいました。そして行き着いたのが、誰も追ってこないラグーナの島々でした。
侵略者の馬は湿地に足を取られ、前進できません。船を持たない軍勢には手の届かない天然の要塞として、このじめじめした湿地帯は難民たちにとって唯一の避難地となりました。
当初、人々は「侵略者が去ったら戻ればいい」と考えていました。しかし異民族の支配は終わらず、難民たちは島でそのまま生活を続けざるを得なくなりました。最初の集落ができたのは6世紀末頃とされており、現在のトルチェッロ島などが初期の居住地として知られています。
ラグーナを「武器」にした人々の知恵
湿地帯での生活は厳しいものでした。魚と塩が主な食糧で、真水も乏しく、建物を建てる固い地盤もありませんでした。それでも人々はラグーナを巧みに利用しました。
船が通れるルートを示すため干潟に杭を立てて航路を示し、有事の際にはその杭を抜いて外敵を迷子にしました。また、干潟を干拓したり荒らしたりする行為には厳しい罰則を設けて、ラグーナそのものを都市の防衛網として機能させました。
水の中に生きることを強いられた難民たちは、次第に水を「敵」ではなく「守り手」として使いこなすようになっていったのです。
木の杭がベネチアを支える|驚異の建設技術
「逆さにしたら大きな森になる」
ベネチア最大の謎のひとつが「なぜ柔らかい泥の上に建物が立っているのか」という問いです。その答えは、地面の見えない部分に隠されています。
人々はまず泥の中に木の杭を大量に打ち込みました。使われたのは主にカラマツ材です。直径約20cm、長さ5〜10mの杭を、柔らかい砂泥の下にある硬い粘土層まで届くよう、すき間なく打ち込んでいきました。次に杭の上端を切り揃え、カラマツ材の木桁(梁)を2層に組んで荷重を分散させます。そして最上部に、クロアチア産の「イストリア石」と呼ばれる緻密な石灰岩のブロックを積んで土台を完成させました。イストリア石は海水への耐食性が極めて高く、その上にレンガや石材で建物を立ち上げていきます。こうして1,000年以上持ちこたえる基礎が完成しました。
ベネチアの街全体で使われた杭の総数は20億本ともいわれており、「ベネチアを逆さにしたら大きな森ができる」と表現されることがあるほど、その数は桁外れです。
なぜ木の杭は腐らないのか
「木の杭なのに1,500年以上も腐らないのか」という疑問は当然でしょう。秘密は地下の環境にあります。
木材を腐食させる細菌は好気性、つまり酸素を必要とします。地下水よりさらに深い硬い地層まで打ち込まれた杭は、土によって密閉され空気にまったく触れません。酸素がなければ腐食菌は生きられません。さらに海中にはシロアリなど陸の虫が存在しないため、食害が起きることもありません。このふたつの条件が重なったことで、木の杭は石のように固く締まり、ベネチアの街を何世紀にもわたって支え続けているのです。
1棟の建物を建てる前の覚悟
この技術の壮大さを一例で示すとすれば、大運河の出口付近に立つ「サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂」がわかりやすいです。1630〜31年のペスト大流行が終息したことを聖母マリアに感謝するため、1631年から建設が開始されました。地盤の弱さから工事は難航し、完成までに実に57年を要しました。その基礎には10万個の木片を組み合わせた土台が使われており、潟の堆積物に深く打ち込まれた数千本の木杭が巨大な聖堂を支え続けています。バロック建築の傑作と称されるこの聖堂の美しさは、見えない部分での人々の執念があってこそ生まれたものです。
697年に始まった「1,000年の共和国」
ドージェ(総督)制度という独自の統治
島に集まった難民たちは、やがて独自の政府を組織しはじめました。12の主要な島の代表者である護民官たちが集まり、名目上は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に属しながら、実質的には自治を確立しました。
697年、ベネチア人は初代「ドージェ(総督)」を選出し、独自の共和制統治を開始しました。これがベネチア共和国の始まりとされています。ドージェという地位は当初は世襲でしたが、貴族間の権力争いが絶えなかったため、やがて選挙によって決めるようになりました。さらに権力の一極集中を避けるために「ドージェの約束」という制度が設けられ、ドージェは就任時に自らの権限を制限する誓約を結ばなければなりませんでした。
実権は大評議会が握り、1297年以降は評議会メンバーも選挙ではなく相続制となりました。特定の貴族家系が政治を牛耳る寡頭制が確立されたことで、ベネチアは安定した統治体制を長期間維持することができました。
聖マルコの遺骸が自治の象徴になった
9世紀に入り、街の中心はリアルト(現在のベネチア本島)へと移りました。自治を強固にするためには、宗教的な独立も必要でした。
828年、2人のベネチア商人がエジプトのアレキサンドリアから福音書記者・聖マルコの遺骸を持ち帰りました。これを祀るために建立されたのが、現在も街の象徴であるサン・マルコ寺院です。聖マルコの象徴「有翼の獅子」像は街の各所に配され、ベネチアの紋章として今も受け継がれています。外から持ち込んだ聖人を自分たちの守護者とすることで、ベネチアはビザンツ帝国の宗教的支配からも距離を置こうとしたのです。
地中海の覇者へ|東方貿易と十字軍が生んだ繁栄
「アドリア海の女王」の誕生
もともと漁業と塩の交易を生業としていたベネチアは、10世紀に入ると急速に東方貿易(レヴァント貿易)の版図を拡大しました。ヨーロッパとオリエント世界を結ぶアドリア海の付け根という地理的優位を最大限に活かし、東方から香辛料・絹織物を輸入し、ヨーロッパから毛織物などを輸出する中継貿易で巨万の富を蓄えました。
11世紀に十字軍遠征が始まると、ベネチアは艦隊と輸送船を提供して大きな利益を得ました。なかでも1202〜04年の第4回十字軍は、ベネチアの歴史において決定的な転換点となりました。老齢ながら凄腕の外交家だったドージェ、エンリコ・ダンドロは遠征軍を率いて東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略しました。その代償としてクレタ島などエーゲ海の要衝を獲得し、ベネチアは東地中海最強の海軍国家へと変貌しました。
マルコ・ポーロが中国まで旅した「東方見聞録」の時代はまさにこの全盛期であり、黒海から中央アジアを経て元朝へ至る道が商人たちに開かれていました。14世紀に入ると「アドリア海の女王」と称えられるベネチアの繁栄は頂点を迎え、地中海貿易のほぼすべてがこの都市を経由するようになりました。
近代外交の原点もここから生まれた
ベネチアの影響力は貿易だけにとどまりません。1455年、ミラノがベネチアに常駐外交使節を派遣したことが、近代的な常駐外交制度の始まりとされています。外交上の機密漏洩を防ぐため、使節には妻の同伴を禁じ、毒殺を防ぐために自前の料理人を同行させるほどの徹底ぶりでした。ベネチアが磨き上げた外交技術はやがてヨーロッパ各国に広まり、現代の国際外交の礎となりました。
衰退と終焉|オスマン帝国と大航海時代が共和国を滅ぼした
どんな繁栄も永遠ではありません。15世紀後半から、ベネチアを揺るがす2つの大きな変化が訪れました。
ひとつはオスマン帝国の膨張です。バルカン半島を制圧して東地中海に進出したオスマン帝国は、ベネチアの海外領土を次々と奪っていきました。1571年のレパントの海戦では連合艦隊がオスマン海軍を破ったものの、キプロスを失い、その後もクレタ島などエーゲ海の拠点が陥落しました。1630年のペスト大流行では都市人口の3分の1が死亡し、もはや共和国の威信を取り戻す術はありませんでした。
もうひとつは大航海時代の到来です。ポルトガルやスペインが大西洋経由の新航路を開拓したことで、東西交易の中心はリスボンやセビリアへと移り、地中海は世界貿易の舞台から外れていきました。中継貿易で栄えたベネチアにとって、これは致命的な打撃でした。
1797年、ナポレオン・ボナパルトがベネチアに侵攻しました。最後のドージェ、ルドヴィコ・マニンは無血開城を受け入れ、697年から続く1,100年にわたる共和国の歴史に幕を閉じました。その後はオーストリア領を経て、1866年にイタリア王国に編入されました。
現代のアクア・アルタ対策|「モーゼ計画」が街を守る
1,200年ぶりの高潮防御に成功
アクア・アルタの深刻化を受けて、イタリア政府が打ち出した対策が「モーゼ計画(MOSE:Modulo Sperimentale Elettromeccanico=電気機械実験モジュール)」です。旧約聖書で海を二つに割った預言者モーセにちなんで名付けられたこのシステムは、アドリア海からラグーナへと通じる3カ所の水路に合計78基の可動式水門を設置するという、空前規模の防潮設備です。
水門は普段、水路の底のケースに格納されています。高潮の危険が近づくと、ケース内に圧縮空気を送り込むことで黄色い鋼鉄製のフラップ(仕切り板)が海面まで起き上がり、アドリア海側からの海水流入を遮断します。最大で水位3メートルまでの高潮に対応できる設計です。
計画が持ち上がったのは1987年、建設開始は2003年のことでした。しかし建設コストの膨張や関係者の汚職スキャンダルが相次ぎ、工期は大幅に延長されました。その間も2019年11月には水位1.87メートルという50年ぶりの記録的高潮が発生し、市内の85%以上が浸水する甚大な被害を受けています。
2020年10月、ついにMOSEの試験稼働が実施されました。この日は最大125センチの高潮が予報されていましたが、水門の稼働によって水位の上昇は約70センチに抑えられ、実に1,200年ぶりにベネチアが高潮を防いだと世界中で報じられました。
効果は実証済み、だが課題も残る
2020年の初稼働以降、MOSEは高い効果を発揮しています。かつては頻繁に見られた大規模な浸水が大幅に減少し、2023〜24年のシーズンには31回稼働して街を守りました。この使用頻度は年々増加傾向にあり、海面上昇が進むにつれてMOSEへの依存度はさらに高まると予測されています。
一方で、新たな懸念も浮上しています。水門の稼働によって潟への海水・堆積物の流入が遮断されると、潟の生態系を支える塩性湿地の植物が栄養不足に陥る恐れがあります。ラグーナの塩性湿地は1,800年以上にわたってベネチアに豊かな自然をもたらしてきた場所であり、環境研究者からは生物多様性への悪影響を懸念する声が上がっています。
MOSEはベネチアを守る「最後の砦」として機能しつつも、今世紀末までにさらに60センチの海面上昇が予測される中、長期的な都市保全と自然環境の両立という難題はまだ解決されていません。1,500年前に難民が泥の中に杭を打って始まったこの街の戦いは、形を変えながら今も続いています。
ベネチアで訪れたい観光スポット
サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)
828年に聖マルコの遺骸を納めるために建立された大聖堂です。金色のモザイク画で覆われた内部と、ビザンツ様式の荘厳な外観が見どころです。ベネチア共和国の国家的宗教施設として長く機能した、街のシンボルです。
ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)
かつてベネチア共和国の政庁として使われた宮殿で、ドージェの執務室や大評議室が残っています。悪名高い牢獄「鉛の牢」と、囚人が最後に外を眺めたという「ため息の橋」も隣接しており、共和国の光と影を感じられます。
リアルト橋(Ponte di Rialto)
カナル・グランデに架かる白いアーチ橋です。1557年の設計公募では、かのミケランジェロも応募しましたが、アントニオ・ダ・ポンテの案が採用されたという逸話が残っています。橋の上には今もみやげ物店が立ち並び、下をヴァポレット(水上バス)が行き交う風景がベネチアらしいです。
ムラーノ島(Isola di Murano)
ベネチア本島の北東に位置する島で、世界的に有名なベネチアングラスの産地です。共和国時代に技術流出を防ぐため、ガラス職人が本島から強制移住させられたという歴史を持ちます。今も多くの工房が稼働しており、熟練の職人マエストロによる制作を間近で見ることができます。
ベネチアでのおすすめ宿泊施設
グリッティ・パレス(The Gritti Palace)
カナル・グランデに面した15世紀建造のパラッツォ(貴族の館)を改装した5つ星ホテルです。かつてドージェの私邸として使われた場所で、壮麗なインテリアと水上からの眺望が評判です。
ダニエリ(Hotel Danieli)
ドゥカーレ宮殿に隣接する老舗の高級ホテルです。14世紀の建物を利用しており、ゴシック様式のロビーが印象的です。プルースト、ヴァーグナーなど数多くの文人・芸術家が滞在したことでも知られています。
ルナ ホテル バリオーニ(Luna Hotel Baglioni)
サン・マルコ広場から徒歩すぐの立地に建つ、ベネチア最古のホテルのひとつとされる施設です。十字軍時代に巡礼者の宿泊所として使われたという歴史を持ち、荘厳なフレスコ画が残るサロンが魅力です。
まとめ|泥の海に刻まれた人類の執念
ベネチアは「美しい観光地」という言葉だけでは語り尽くせない場所です。異民族に追われた難民が泥の湿地に杭を打ち、徐々に島を広げていきました。木の杭が腐らない理由を見出し、酸素のない泥の中に街ごと沈め込んで守りました。自治を守るために聖人の遺骸を持ち込み、宗教的な独立まで勝ち取りました。
そうして積み上げられた1,000年以上の共和国の歴史が、今のベネチアの石畳の下に、そして地面より深い泥の中に刻まれています。世界遺産の街を歩くとき、足の下に眠る何億本もの木の杭を思い浮かべてみてください。




