添乗員ライターがお届けする海外旅行情報。今回はイタリア旅行で必ず話題になる「水道水は飲めるのか」というテーマを取り上げます。長時間の観光で喉が渇いたとき、ホテルの部屋で歯を磨くとき、誰もが一度は気になる疑問です。結論から言うと、イタリアの水道水は国全体で厳格な基準のもとに管理されており、ローマやフィレンツェといった主要都市では基本的に飲用可能です。ただし日本の水とは性質が異なる部分もあり、知っておくと旅が快適になる知識がいくつかあります。本記事では水質の実態から、ローマの街角に二千年近い歴史を伝える給水文化、現地で水分補給に役立つ具体的なスポットまで、順を追って解説します。
知っておきたい注意点
イタリアの水道水で最初に意識しておきたいのは「硬水」であるという点です。地質的に石灰質の地層を多く通るため、カルシウムやマグネシウムの含有量が日本の水道水より高い傾向があります。普段軟水に慣れている旅行者がそのまま飲むと、お腹がゆるくなったり、口当たりに違和感を覚えたりすることがあります。地域による硬度の差も大きく、特にローマは石灰分が多く、独特の風味を感じやすい水質です。乳幼児や胃腸が敏感な人は普段と異なる体調変化が出やすいため、現地ではミネラルウォーターを併用する旅行者も多く見られます。
また、ローマやフィレンツェのように建物自体が古い旧市街では、建物内部の配管が長年使用されてきたものであることも珍しくありません。供給される水自体は基準を満たしていても、蛇口から出るまでの間に味や色合いに影響が出ることがあるため、気になる場合はホテルの冷蔵庫に用意されたミネラルウォーターを利用するという選択肢もあります。
なお、イタリア北部ヴェネト州では過去に化学工場の排水に由来する有機フッ素化合物(PFAS)が地下水や水道水に流出した事例が確認されており、長年にわたり裁判で責任の所在が争われてきました。2025年6月には地裁が汚染に関与した企業関係者に有罪判決を下し、現在は当局による継続的な水質モニタリングが行われています。イタリア全体で見れば例外的な事例ですが、特定地域に長期滞在する場合は現地の最新情報を確認しておくと安心です。
ローマの水道史|古代から流れ続ける「アックァ・ヴェルジネ」

イタリアの水文化を語るうえで欠かせないのが、ローマに今も流れ続ける古代水道「アックァ・ヴェルジネ(Acqua Vergine)」です。紀元前19年、初代皇帝アウグストゥスの命を受けた将軍アグリッパによって完成したこの水道は、当時「ヴィルゴ水道」と呼ばれ、全長およそ20.9キロメートルのうち大部分が地下の導水路で構成されていました。古代ローマには合計11本の水道が築かれましたが、地上を走る水道橋の多くは後世のゴート族による侵攻で破壊され、機能を失っていきました。地下を流れる構造を持つヴィルゴ水道だけが破壊を免れ、古代から今日まで一度も途切れることなく機能を保ち続けてきた唯一の水道とされています。15世紀には教皇ニコラウス5世が大規模な修復と拡張を行い、名称も「アックァ・ヴェルジネ」へと改められました。
この水道の水を引いて造られたのが、現在のトレヴィの泉です。建築家ニコラ・サルヴィの設計により1762年に完成した現在の姿は観光名所として知られますが、噴水中央の大きな水盤は装飾的な役割が主であり、コインを投げ込む慣習もあるため飲用には使われません。一方で泉の右手には「アックァ・デッラモーレ(愛の水)」と呼ばれる小さな水飲み口が今も残っています。かつて戦地へ赴く恋人を見送る娘たちがこの水を飲み、コップを割って永遠の愛を誓ったという逸話が伝わる場所です。
ローマの給水文化はさらに19世紀に大きな転換を迎えます。1874年、当時の市長ルイジ・ピアンチャーニの主導で、公衆衛生の向上を目的とした公共水飲み場の整備が始まりました。鋳鉄製で高さ約120センチ、重さ約100キログラムのこの水飲み場は、当初三頭の竜をかたどった蛇口を備えていましたが、のちに一本の曲がった蛇口へと簡略化されます。この蛇口の形が大きな鼻を思わせることから、ローマ市民は親しみを込めて「ナソーニ(大きい鼻)」と呼ぶようになりました。当時のままの三頭の竜の蛇口は数こそ少ないものの、クイリナーレ宮殿近くのヴィア・デッラ・コルドナータや、パンテオン前のピアッツァ・デラ・ロトンダで今も見られます。
厳格な基準に支えられた安全性
ローマの街角に流れる水が安心して飲める背景には、EU全体で統一された厳格な法的枠組みがあります。2020年に改正されたEU飲料水指令(Directive (EU) 2020/2184)は、加盟国に対して飲料水の品質基準を引き上げるとともに、新たな汚染物質への対応も義務付けました。イタリアではこの指令を受けて2023年2月に新たな法令(2023年法律第18号)が制定され、同年3月21日付で旧来の基準を全面的に置き換えています。
新制度の特徴は、水道事業者自身による検査と、地域の衛生当局(ASL)による独立した検査という二重の監視体制です。検査方法はイタリア保健省傘下の国立衛生研究所(ISS)が定め、基準を超える数値が検出された場合は市長が予防的な措置を講じる権限を持つ仕組みになっています。さらに「水安全計画(PSA)」と呼ばれる制度により、水源から各家庭の蛇口に至るまでの全工程でリスクを評価・管理することが、2025年までに全国の水道システムへ導入する目標として進められてきました。
ローマの水道事業者アチェア(Acea)も、街角のナソーニから出る水は各家庭の蛇口と同じ水道網からの水であると明言しています。つまりナソーニで給水することは、ホテルや住宅の水道水を飲むことと実質的に同じ行為であり、観光客が安心して利用できる仕組みが整っているということです。
2025年法改正|「蛇口まで」広がった水質管理の責任範囲

イタリアの水道行政には、長らくひとつの構造的な空白がありました。水道事業者が保証する水質はあくまで各建物の水道メーターまでであり、メーターから先、つまり建物内部の配管や受水槽、加圧ポンプ(アウトクラーヴェ)をどう管理するかは、長年「私的な領域」として扱われてきたのです。マンションの管理人には民法第1130条・第1135条に基づく一般的な維持管理責任はあるものの、「受水槽は何リットル以上なら年に1回清掃する」といった具体的な数値基準を定めた法律は存在せず、清掃の頻度は業界の経験則として「年1回程度が望ましい」とされる程度にとどまっていました。
この構造を大きく変えたのが、2025年7月19日に施行された新法令「2025年立法令第102号(D.Lgs. 102/2025)」です。EU飲料水指令(2020/2184)を国内法化した2023年立法令第18号をさらに強化するもので、水質管理の責任範囲を初めて「蛇口まで」明確に拡大しました。
新法が主な対象とするのは、レジオネラ菌(Legionella pneumophila)のリスクです。この細菌は古い配管内のスケールやバイオフィルム、流れが滞りやすい受水槽、そして20度から50度という生活給湯にありがちな温度帯で増殖しやすいことが知られています。新法のもとでは、マンションの管理人は単なる常識的な維持管理ではなく、技術的なリスク評価を伴う具体的な対応を取ることが求められます。主な内容は次の3点です。
第一に、配管内部の劣化状況の調査です。資格を持つ技術者が配管を点検し、スケールやバイオフィルムの蓄積がないかを確認します。第二に、受水槽と加圧ポンプの点検です。これらは水の滞留が起きやすく、管理を怠ると感染源になりやすい設備として、新法のなかで明示的に名前を挙げられています。第三に、給湯温度の管理です。レジオネラ菌が増殖しやすい温度帯に給湯が滞留しないよう、継続的な温度監視が求められます。
特に歯科医院や美容サロン、診療所のように、シャワーやエアロゾルを介して水が飛沫化しやすい施設が建物内にある場合は、サンプリング調査を年1回実施することが、感染が発生した際の民事・刑事責任を免れるための条件として明記されました。これは事実上、こうした高リスク施設にとって年1回の検査が義務となる、日本の受水槽清掃義務に近い具体性を持つ規定です。
ホテルや宿泊施設の給水設備も、シャワーヘッドや浴槽を通じた飛沫感染がレジオネラ症の典型的な感染経路であることは国際的にも認識されており、この新たな枠組みのもとでより厳格な管理が求められる対象に含まれます。歴史的建造物を改装した宿泊施設や長期滞在型のアパートメントホテルに泊まる機会があれば、こうした規制強化の流れが進行中であることを知っておくと、水回りに関する見方が少し変わるかもしれません。
まとめると、イタリアにはかつて日本のような明文化された受水槽清掃の数値基準はありませんでしたが、2025年の法改正によって、レジオネラ対策を軸にした実質的な点検義務が初めて制度化されたといえます。水道水そのものの安全性がEU指令によって保証される一方、建物内部の最後の数十メートルの安全性も、ようやく法的な枠組みに組み込まれた段階にあります。
知れば旅が変わる、イタリアの水のもうひとつの魅力

経済的・環境的なメリット
ローマ市内には現在2,500か所を超えるナソーニが存在し、旧市街だけでも200か所以上に及びます。これらは昼夜を問わず絶えず水が流れ続ける構造で、空のペットボトルや水筒を持ち歩けば、観光中いつでも無料で給水できます。ミネラルウォーターをその都度購入する場合と比べて費用を抑えられるだけでなく、使い捨てプラスチックごみの削減にもつながり、エコな旅のスタイルとして定着しています。
進化する給水インフラ「カーザ・デッラックァ」
近年ローマでは、ナソーニをさらに発展させた「カーザ・デッラックァ(水の家)」と呼ばれる給水設備も増えています。冷えた水と炭酸水の両方を選べるほか、スマートフォンの充電用USBポートを備えた機種もあり、2025年の聖年(ジュビリー)に合わせてバチカン市国内の2か所を含む14基が新設され、ローマ都市圏全体で160基規模に拡大しました。イタリア語・英語・スペイン語に対応した公式アプリ「アックエア(Acquea)」を使うと、現在地から最も近いナソーニやカーザ・デッラックァの位置を地図上で確認できます。
地域ごとに異なる水の表情
イタリアは南北に長く、地質によって水の性質も大きく変わります。石灰質の地層を通るローマの水はカルシウム分が多く硬度の高さが際立つ一方、ナポリ周辺は比較的軟水で、現地のピッツァ職人が生地づくりにこの水質を生かしているとも言われています。水の都ヴェネツィア(ベネチア)は海に浮かぶ干潟の上に築かれた都市であるため、かつては広場に降った雨水を地下の貯水槽に濾過して溜める「ヴェーラ・ダ・ポッツォ」という井戸構造に頼っていました。現在では水道事業者ヴェリタスが管理する深層帯水層からの地下水(全体の約9割)と、シーレ川の表流水を組み合わせて供給しており、イタリア国内でも質の高い水として知られる存在です。
水の歴史を体感できる代表的なスポット

パンテオン前、ピアッツァ・デラ・ロトンダ
紀元前27年創建のパンテオンを背景に、広場の一角には三頭の竜の蛇口を残す貴重な初期型のナソーニが設置されています。二千年前の神殿を眺めながら現代の水道網から給水できるという、ローマならではの時間の重なりを体感できる場所です。
トレヴィの泉脇の「愛の水」
トレヴィの泉そのものは観賞用であり飲用には適しませんが、泉の右側に設けられた小さな水飲み口「アックァ・デッラモーレ」は、アックァ・ヴェルジネの水を今も引いています。観光客で賑わう広場の片隅で、恋人たちの誓いの逸話に思いを巡らせながら水を飲む人の姿も見られます。
フィレンツェ、シニョリーア広場のフォンタネッロ
フィレンツェ市が運営する無料給水所「フォンタネッロ」は、ネプチューンの泉の背後、ヴェッキオ宮殿の外壁に設置されています。炭酸水(ガッサータ)と通常の水(ナトゥラーレ)の両方を選べる仕組みで、真夏の市街地観光で行き交う旅行者の水分補給を支えています。
サン・ピエトロ広場周辺のカーザ・デッラックァ
バチカン市国とその周辺は屋外の売店が少なく、長時間の行列が発生しやすい一帯です。2025年の聖年に合わせてピアッツァ・リソルジメントやバチカン美術館付近に新設されたカーザ・デッラックァは、サン・ピエトロ大聖堂を訪れる旅行者にとって貴重な給水拠点になっています。冷えた水と炭酸水を選べる点もナソーニとの大きな違いです。
ローマでの宿泊先|水の物語と結びつくホテル
水にまつわる歴史を巡る旅程では、滞在先の立地もひとつの楽しみになります。ローマ中心部から3軒を紹介します。
ザ セント レジス ローマ
マリオット・インターナショナル傘下の最高級ブランド「セント・レジス」が手がける、1894年創業の歴史的ホテルです。レプブリカ広場に面した立地で、隣接する「モーゼの噴水」として知られるアックァ・フェリーチェの泉は、16世紀に教皇シクストゥス5世の命で築かれた水道の到達点にあたります。館内には19世紀初頭に水道の水圧を利用して稼働していたエレベーターの面影が残り、現在は電動化されたうえで現役で使用されています。
ホテル トレヴィ コレクション
トレヴィの泉から徒歩数分という立地にある4つ星ホテルです。屋上テラスからはローマ市街のパノラマが広がり、観光の合間に「愛の水」の逸話が残る泉まですぐに足を運べる利便性があります。
エイチ・ボッロミーニ パラッツォ・パンフィーリ
17世紀にバロック建築家フランチェスコ・ボッロミーニが手がけたパラッツォ・パンフィーリの一翼を占める、ピアッツァ・ナヴォーナ徒歩2分のブティックホテルです。パンテオンへも徒歩5分という立地で、初期型ナソーニが残るピアッツァ・デラ・ロトンダへの散策にも適しています。屋上テラスからはパンテオンのドームまで見渡せる景観が魅力です。
まとめ

イタリアの水道水は、EUと国内法による二重の安全基準のもとで管理されており、ローマやフィレンツェといった主要都市では基本的に飲用可能です。硬水特有の口当たりが気になる場合はミネラルウォーターを選ぶ自由もありますが、街角のナソーニで給水するという体験は、アグリッパの時代から続く二千年の水道史に触れる小さな旅でもあります。
ナソーニとカーザ・デッラックァはローマ市街に広く分散しており、観光ルートのどこを歩いていても給水に困ることはほとんどありません。パンテオンやトレヴィの泉周辺に宿を構えれば、古代から現代まで続く水の物語をたどる散策路を、滞在中いつでも歩いて巡れます。
